ブラッとするには 丁度良い距離

by スタジオ亜空間

☆ 未来を探して 今日も何処かを ブラッとしています 平岡莉貴 ☆

海峡物語


「故郷に帰ろうと思っています」
 田辺啓介はポツンと言った。
 寂しそうではあったが、やっと自分の行く道が解った、そういった力強さも含まれていた。

 田辺啓介が海峡を渡ったのは、中学を卒業して半年を過ぎた頃だった。
 父が経営する割烹料理店で働いていたが、啓介は洋食に魅力を感じ半ば家出同然に函館から、海峡を渡った。
 行く当ては無かった。
 無かったが若い啓介には、そんな事は小さな問題に過ぎない。とにかく東京に出ようと思った。無謀だとは思えなかった。東京に行けば何とかなる。そんな気持ちだった。
 東京に出てきたが、もちろんすぐに洋食の店に就くことは出来なかった。紹介者もなく、当然保証人もいない啓介がすぐに働ける店など、東京には無かった。それほど甘くはない事を思い知らされた。
 とにかく働ける所を探さなければならない。住む場所も、だ。青木建設に就職出来たのは、啓介にとって大きな幸運だった。
 建設会社と言っても、大きな工務店の請け負った仕事の労務者として雑用ばかりの仕事だ。

「青木社長は私の恩人です」
 啓介はじっと遠い過去を思い出すように虚空を見つめ、話を続けた。
 グルメを自認していた青木社長は、啓介が洋食のコックになりたがっている事を知っていた。真面目に働く啓介に、ことのほか目をかけていて、りっぱなコックに成って欲しいとも思っていた。
 ある日、青木社長は啓介を行きつけのレストランに連れていった。
 彼をその店に紹介する為だった。そしてその店で働くことが出来た。
 啓介は熱心に修行した。

 初めて啓介がナイフを持たせてもらえたのは、二年近く経ってからのことだ。下拵えの皮むきばかりだが、コックの道に一歩近づいたわけだ。その夜、故郷を出て初めて手紙を書いた。母親宛であった。
 実はこの時でも知らなかったのだが、青木社長はすでに啓介の両親宛に手紙を出していたのだった。自分が預かっているから心配しないように、と。
 啓介が修行中にも青木社長は度々やってきた。
 やってきて調理場でジャガイモを剥く啓介をじっと見つめていた。
 彼が自分の息子だったらと思う。
 ある夜、青木は啓介の実家に電話を入れた。
 時候の挨拶の後、啓介の父は「めんどうをかけています」と礼を言った。そして、啓介にはやはり自分の割烹の店を継いで欲しいのだとも言った。「兄にこの店を継がせ、啓介には支店を任せたい」と。
 啓介の父は自分の店を大きくしたいと思っている。青木も同じ気持ちだった。道は違うが同じ職人同士、気持ちが通じ合った。
「わかりました。一通りコックの修行を終えたら、割烹の勉強をするように話しておきます」
 電話を終えて、青木は啓介親子を、いい親子だと感じた。

 啓介がレストランで働き初めて五年が経った。
 すでに一人前に料理を作っていた。まだまだ簡単な物しか作らせて貰えないが、自分の作った料理を食べてもらえる嬉しさを感じていた。
 希望が見えていた。
 いつか自分のレストランを持つ。父親に負けないような店を持つ。その為の準備も着実に進行していた。
 青木社長が病に倒れたのは、丁度そんな気分に浮かれている時だった。
 病院に駆けつけた啓介は、青木の病気が癌であり、あと半年しか持たないだろうと言うことを、そのとき知った。青木にはそのことは伏せてあったが、彼はすでに悟っていたのだろう。啓介をベッドの脇に座らせた。
「どうだ、仕事の方は」
「そろそろ自分で料理を工夫してみようと思っています。出来たらぜひ食べに来て下さい」
「よし、わかった。ぜひ食べさせてもらおう。だが、どうだ、日本料理は」
「えっ!」
「親父さんの店を継ぐ気持ちは無いか?」
「オレはコックに成りたいんです。洋食をやりたいんです」
「それはわかるが・・・。わしはお前の父親と話したんだ。そして、親父さんはお前に店を継いで欲しいと思っている事を知った。わしには息子がいないが、もしいたら・・・もしお前がわしの息子だったら、やっぱりわしの後を継いで欲しいと思う」
「でも、店には兄貴がいます。オレがいなくても」
「父親にとっては兄も弟も同じ息子だ。二人で一緒になって店を大きくして欲しいものだ。お前に支店を開いて欲しいと言っている」
 思いも寄らない事だった。
 話の内容もそうだが、青木がすでに父親と話をしていたと言うことがだ。
 青木社長はそこまで自分の事を考えていてくれたのか。
 割烹料理。
 しかし、洋食への思いは充分にある。あと暫くはコックの修行を続けよう。故郷に戻ることを決心するのはまだ先でいい。
 啓介は今まで以上に修行に打ち込んだ。
 仕事が終わってから料理の工夫をした。青木社長に食べてもらいたい一心で、工夫を重ねた。
 啓介が故郷を出て七回目の秋がやってきた。秋空になっても東京には冬の到来を感じさせる物がない。毎年この季節になると冬支度が始まるのだが、激しい冬のことはもう思わなくなっていた。気候で秋を感じるのではなく、街を行く人々の服装で季節を感じるようになっていた。
 洋服の色合いが茶系統が目立つようになって、啓介は秋を感じ、冬の到来を感じた。
 青木社長の訃報が届いたのは、昼食時の忙しさからようやく解放された、午後の遅い時刻だった。

「それから暫くしてこの店に移ってきました」
「洋食は諦めたのですか?」
「いえ、そうではありません。料理には洋食も和食もありません。基本的に日本人が味わう物です。それがやっとわかりました」
「日本人の為の料理、という事ですね」
「ええ。父親もそれを理解していて、僕に帰ってこいと言わなかったのでしょうね」
「でも、心では帰って欲しいと・・・・」
「もちろん、そうでしょうね」
「いつ、故郷に帰る決心を?」
「青木社長の三回忌の法要の日でした。読経を聞きながら、社長の声が聞こえました。親父が楽しみにしているぞってね」
           
           
        海峡物語 : 秋  東京     取材 平岡莉貴


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